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極真空手の歩み

大山倍達は1952年のアメリカのシカゴ遠征を皮切りに、翌年もアメリカ再訪しニューヨークにて空手指導を行う。この後、アメリカを軸に東南アジア、ヨーロッパ、メキシコに遠征し、1958年に日本で最初の英文による空手書「What is Karate?」を出版し海外でベストセラーになる。

この反響は大きくハワイ、アメリカ本土、ヨーロッパ、南アフリカ、オーストラリア、ブラジルなど世界中から指導要請や指導員派遣の要請がくることになった。また、世界各地から日本の極真会館本部に空手修行にやってくる外人が後を絶たなかった。大山倍達はその熱い要望に応え、精力的に世界中を駆けめぐり、極真空手の普及に努めていった。海外指導員の派遣も1966年黒崎健時指導員のヨーロッパ派遣に始まり、1975年全世界空手道選手権が開催されるまでに世界各地に次のように指導員を派遣していったのでした。

世界に広がる極真空手

1966年 2月 黒崎健時指導員 ヨーロッパに派遣
    中村忠指導員 アメリカに派遣
  6月 大山茂指導員 アメリカに派遣
1967年 4月 加藤重夫指導員 オーストラリアに派遣
1968年 2月 小倉正一郎指導員 ブラジルに派遣
1969年 5月 松島良三指導員 シンガポールに派遣
1971年 7月 岸信行指導員 台湾に派遣
  11月 金村清次指導員 アメリカに派遣
1972年 6月 磯部清次指導員 ブラジルに派遣
  9月 大山泰彦指導員 アメリカに派遣
1973年   三浦美幸指導員 アメリカに派遣 シカゴ支部長に任命

海外からは、ジョン・ブルミン、ヤン・ヘン・カレンバッハ、ルック・ホランダー(以上、オランダ)、スティーブ・アニール、ハワード・コリンズ(以上、イギリス)、ジャン・ジャービス(ニュージーランド)、ジョン・テイラー(オーストラリア)らが自ら来日し総本部で稽古した。彼らは帰国後、現地の支部長や指導員に任命された。

大山倍達とその優秀な弟子たちが海外で極真空手発展のため心血を注いだ結果、世界各国各地域で極真空手の技術と精神が伝承され、1958年のハワイ支部が発足すると各国支部・地区連盟が設立された。
1971年、国際空手道連盟極真会館の各地区委員長が決定し、全世界空手道選手権大会開催に向けての準備が整った。

東南アジア地区 ― ピーター・チャン
南太平洋地区 ― ジャン・ジャービス
ヨーロッパ地区 ― ルック・ホランダー
北米地区 ― ステバン・セニ
中近東地区 ― ラード
南アフリカ地区 ― ヤン・ハリス

極真空手挑戦の歴史

1964年1月、日本空手界に対しムエタイ(タイ式ボクシング)が挑戦したが、当時の空手界は邪道としてこれを受けなかったので、大山道場(極真会館の前身)が受けて立った。
黒崎健時、中村忠、藤平昭雄の3名がバンコクに渡り、3戦2勝1敗と勝ち越し日本空手の威信を高めた。

極真会館があらゆる格闘技に参加を呼びかけ、新たに格闘技界に挑戦を仕掛けていくイベントが全日本空手道選手権大会だった。
しかし、会館竣工以降、念願であった全日本空手道選手権大会の開催に着手するも、第1回全日本空手道選手権大会が開催されるまでの道のりは想像以上に険しいものであった。

今でこそ直接打撃制の大会をいろいろな流派が開催しているが、当時はこのルールで大会を行なうと主張する極真会館に対して、会場側は決して協力的ではなく、なかなか会場が確保できなかった。東京都体育館とは都合3年もの長い期間を交渉に費やし、ようやく1969年(昭和43年)9月に第1回全日本選手権が開催できる運びとなった。

全日本開催前の4月、弟子の山崎照朝・添野義二らがNET(現・テレビ朝日)の『ワールドキックボクシング』へ参戦。当時のキックボクシングはNET他、TBS、日本テレビ、東京12チャンネル(現・テレビ東京)の4局で放映され、新興スポーツとして注目されていた。その試合で山崎照朝や添野義二がKO勝ちした事で極真会館の強さをアピール出来たのも、結果的には大会の宣伝となったのではなかろうか。

極真の看板を守り抜く

“オープントーナメント”と謳った全日本空手道選手権大会は、流派を問わない参加の呼びかけを行なった。韓武館(現・全日本空手道連盟練武会)をはじめ、この大会に申し込みをした選手の半数が他流派で、なかにはアメリカ人のヘビー級ボクサー、イスラエル人の柔道家、ムエタイ選手と、他格闘技からもエントリーしてきたことで、さながら“異種格闘技戦”の様相を呈していた。

試合は無差別級で、直接打撃制によるKO(ノックアウト)で勝者を決するものとし、反則の規定は「顔面を殴ること」「頭突き」「急所攻撃」のみで、当時は投げや掴みも認められていた(現在は禁止)。6時間にわたる激しい大会となったが、キックボクシングでも活躍をした山崎照朝がみごと優勝をおさめ、添野義二が準優勝になるなど、主催者である極真会館の選手が上位を死守した。

大山倍達も「これで極真の看板を下ろさずにすんだ・・・」と溜飲をさげ、興行的にも7,000人の観衆を集め、全日本空手道選手権大会は大成功に幕を閉じた。このことが翌年以降の継続的な大会開催に繋がり、1975年(昭和50年)には第1回オープントーナメント全世界空手道選手権大会も開催。現在に至っている。

飛躍する極真空手

第1回全世界空手道選手権は、優勝から6位まで日本人が独占し空手母国の威厳を守り、超満員の観客を集め大いに盛り上がった。この世界大会の成功は、世界の極真空手家たちに夢と希望を与え、組手の技術が急速に進歩し、組織が発展するきっかけとなる大変意義ある大会となった。

大会後の1976年には、世界大会に出場したアメリカ・ニューヨーク支部のウィーリー・ウィリアムズが熊と戦い、映画「地上最強のカラテ」にて上映される。その後、第2回全世界空手道選手権に出場し、3位に入賞するとプロレスラーアントニオ猪木と異種格闘技戦を戦い引き分けた。

それまで日本国内では、全日本空手道選手権大会は無差別級しか行われて来なかったが、1984年に初めて、ウェイト制の全日本空手道選手権大会が開催された。中量級や軽量級の選手も活躍できる場ができたことで道場生のモチベーションもあがり、年々選手層が厚くなり、極真空手に入門する若者では道場に溢れていったた。国内の支部も順調に拡大され、1988年9月に日本の全ての都道府県に極真会館組織が確立するに至った。

次の世代へむけて

極真空手と言えば若くて雄々しい成年男子を中心に日夜厳しい稽古と激しい組手をしている流派という印象が強く、女子や壮年の方には敷居が高くなかなか入門するのに勇気がいったものだが、1996年頃から急速に少年部、女子部、壮年部などの入会者が増えてきた。これを受けて極真の組織としては1995年に女子と青少年の組手と型の全日本空手道選手権大会を開催し、2000年には壮年や大学生の全日本空手道選手権大会を開催するなど、各年代の方が目標とできる試合を次から次へと企画し、組織の充実をはかって来た。

また、第7回世界チャンピオンのフランシスコ・フィリョがK-1に参戦し、当時のK-1チャンピオンアンディー・フグに一撃でKO勝ちするなど、プロの試合でも一撃で倒し続けたことから「一撃伝説」といわれた。 その後もグラウベ・フェイトーザ、ニコラス・ペタスらがプロの試合に参戦して活躍し、2007年第9回全世界空手道選手権大会のチャンピオンのエベルトン・ティシェイラがK-1に参戦するなど現在も活躍中である。

世界大会は第6回目から松井館長が引き継ぎ、次回大会で第10回を迎えようとしている。
松井館長は2007年に第9回全世界空手道選手権大会を成功に終え、次回2011年の世界大会が開催されると、大山総裁が開催した通算5回の世界大会と同じ回数の世界大会を開催することになる。

全日本空手道選手権大会は2008年に40回を数え、全日本ウェイト制空手道選手権大会は現在のところ26回になるまで継続することが出来た。国内の支部も100支部を超え、引き継ぐ前の倍の数に増えている。極真会館は次の世代へむけてさらなる飛躍を続け、これからも地上最強の団体として格闘技界に挑み続けることでしょう。

極真空手の魅力にマスメディアも飛びつく

梶原一騎原作の『虹を呼ぶ拳』、『空手バカ一代』、『四角いジャングル』などで、大山倍達と極真会館は実名で取り上げられた。特に『空手バカ一代』は大山を主人公にし、弟子も紹介された作品で、アニメ化や映画化もされてきた。

東映は、大山道場時代からの弟子である千葉真一(現・JJサニー・千葉)主演で、大山倍達を主人公にした『けんか空手 極真拳』1975年(昭和50年)、『けんか空手 極真無頼拳』1975年(昭和50年)、『空手バカ一代』1977年(昭和52年)を、また、三協映画が『地上最強のカラテ1・2』1976年(昭和51年)、『最強最後のカラテ』1980年(昭和55年)を制作し、それぞれ公開された。

東映の3作品には、大山道場や設立直後の会館で師範代を務めていた石橋雅史も出演している。これら劇画や映画に、極真会館は全面的に協力した。 書籍出版は大山倍達自らも精力的にしていた。1966年(昭和41年)には極真会館の機関誌として、月刊『近代カラテ』(後に『現代カラテ』→『現代カラテマガジン』と変更)を発行。1978年(昭和53年)からは新たに『月刊パワー空手』を機関誌とし1995年には現在の『ワールド空手』へと名称を変更した。また、『空手バカ一代』に登場した弟子のほとんどが、各々自叙伝や技術本を出版していった。

テレビや雑誌でも取り上げられることが多くなり、1973年(昭和48年)の第5回オープントーナメント全日本空手道選手権大会からテレビ中継され、その後、全日本・全世界大会開催毎に東京12チャンネルやNETで放送された。雑誌では『ゴング格闘技』(日本スポーツ出版)、『格闘技通信』(ベースボール・マガジン社)、『フルコンタクト KARATE』(福昌堂)にも頻繁に登場して“極真カラテ”の知名度は飛躍的に拡がっていった。

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